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松本美須々ヶ丘高等学校同窓会

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市中魂・市高感覚

私にとって母校の思いでは(いまから回想すると)、父との思い出と分かちがたく結びついている。そのことを記して編集者の要請に応えたいと思う。

私の年齢になると誰でもそうだろうが、そろそろ行く先を考えて身辺の整理に掛かるものである。私も二~三年来、折を見て蔵の中を整理していた。幾編かの表彰状や感謝状が出てきた。額に入ったもの、短筒のもの、その中に「松本市立中学・高校」の学校長から父親に宛てたものがあった。自然、当時の風景が鮮やかに蘇る・・・。

終戦の年の春、私は松本市立中学校に入学した。校舎は、現在の日本銀行松本支店の場所にあった。戦争が激しさをまし、食べ物もままならぬ時期だった。その年の八月、いまわしい戦争も終わりを告げたが、中学とは名ばかりで教師も不足していた。授業は一日に二時間単位で打ち切られ、食糧生産のための農作物作りが日常であった。校舎の都合で、最初に引っ越しをさせられたのが旧五十連隊跡地だった。校舎は実にひどいもので、一角に旧日本軍の兵器庫や被服庫などがあり、その鉄砲の返還で、東町にあった憲兵隊へ作業に駆り出されたこともある。

やがて学制が変わり、現在の六・三・三制が施行された。従って、学校制度の試金石のようにすべて「新制」の肩書きつきだった。松本市内の女子の学校も合併され、混合寄り合い所帯のにわか学園が編成されたのである。高等学校とは言っても、併設中学とも呼ばれた部分もあった。食糧不足の中、栄養失調で亡くなる教師もいたし、旧中学自体に教練で引っ叩かれた教師が民主主義を唱え始めてもいた。

追々先生も揃い、戦後の混沌から出発した学校も本格的に動き出した。少しずつ食べ物も出回ってきたものの米の飯は余り食べられなかった。私は生来の勉強ぎらい、頭の悪さも重なって、授業より軟式のテニスや登山、演劇で三年間の高校生活を終えた。
演劇は「黄色い部屋」「りんご園日記」「夕鶴」などの思い出はあるが、大体裏方がほとんどだった。ろくな勉強もしないまま高校の卒業式を迎えたが、卒業式の会場は校舎が火災で消失していたため、又また旧五十連隊(現信州大学旭町キャンパス)の被服庫の跡だった。その会場でPTA会長だった父親が泣く姿を見た。「もうらしい(信州の方言、かわいそうだ)こんなところで卒業式をさせるなんて!」人前もはばからず会長挨拶を泣きながらした姿はいまでも目に焼きついている。親父という存在を強く意識した瞬間である。

一日でも早く校舎復興を! 資金・予算も物資もままならぬ時代に、日夜校舎の復興に情熱をかたむけた親父の姿を思い出す。蔵の中から出てきたものは会長辞任の時の感謝状であった。それは今風のワープロと違って肉筆による長文の感謝状であった。

松本市立高校の校舎が旧連兵場跡に立派に再建されたニュースは、東京日本橋の勤め先で聞いた。「大学浪人」は家庭の経済を考えるととても出来ず、私は高校卒業後ただちに実業社会へ入った。それ以来、日本経済の復興・発展の戦士先兵として日々の仕事に追われ、郷里に戻ってからは商店街が発展する松本の「まち」のためにも一所懸命努めてきた。世は移り、人は変わり、振り返ると、いつの間にか齢を重ねて末期高齢者となった。

私は自分の「来し方の記」のつもりでこれを書いてはいない。私自身は立派なイデオロギー(古い言葉か)なぞ持ち合わせないし、一介の商人としてその時々を精一杯生きるほかなかったが、考えてみれば卒業式のときの親父の涙とその後の校舎建設に懸命に取り組んだ努力は私に何かを教えたようである。いまの私に活力があるとすれば、あの時の親父の姿に学ぶもののあるを知るのである。

余談かもしれないが、一言。本校が、「長野県立松本美須々ヶ丘高校」として昭和二十九年に新発足する以前に前史として明治四十二年創立の「松本女子職業学校」をルーツとする松本地域の女子職業教育の永い伝統があり、そしてこれもまた地域要望を受けて昭和十六年に設立された「松本市立中学校」という大きく分けて二つの流れがあるのは、ご承知のとおりである。
特に「松本市立中学校」の発足は当時、きわめて清新な印象をもって受け止められ、その校風・理念に独特のものがあったように思う。ちょっと上手く表現できないが、「市中魂・市高感覚」といったような独特のスマートで洗練された都会的な感覚の、しかも町(地域)にねづいた清新な気風を共有していた。そういう意欲的な気分が、学校の内外に横溢していた。敗戦直後、甲子園に駒をすすめた「松本市立中学・高校」の活躍もそうした気分から生まれてきたといってよいだろう。

確かに腹のへった青春だったが、歴史の短かった市立中学・高校で真剣に論議した校友諸兄の戦後になっての活躍も忘れられない。「どんなことがあっても戦争はしてはならない!」と、私の尊敬する一年先輩のIさんはたった一人でベトナム反戦運動をしたことを思い出す。
私たち第五市中会同窓有志は、そういう時代の証言者として、松本城四百年まつりが行われた平成五年、日本銀行と隣り合う市役所の敷地の一角に「わが母校、ここにありき」の碑を、かってこの場所に縁のあった一、二の学校名を連記し、小さな記念碑を建てさせてもらった。こうして青春の学び舎に一区切りをつけたつもりである。

そこで「美須々ヶ丘高校同窓会」のあり方であるが、望むらくは、私は県立移管の昭和二十九年四月一日ももって新たなスタートとすることをお奨めしたいと思う(私の感想は独断的、懐古的に過ぎるだろうか)。新しい時代は、学校教育も少子化の進展とともに変化してゆくように思えてならない。

プロフィール
池田 六之助
松本市立中学入学、市立高等学校 昭和26年卒
アステップ信州(株)取締役社長
松本商工会議所副会頭

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